ハナロロを運営している、タキコウ縫製の社名は、会長 滝川幸市の苗字名前の1字目を取り、つけられています。
そんな会長から、タキコウ縫製を作った経緯や、その思いを社員に話してもらいました。会長曰く、波乱万丈のストーリー良かったら一読下さい。
滝川 幸市 19歳で結婚し、妻順子の親戚の会社である岡崎製パンの営業として働き始める。
岡パンの給料だけでは、食べていけず、ミシン2台を購入し自宅で、内職を始める。
それでも生活は楽にならなかった。
そんなときに、会社の10年先輩 佐々木に出会う。
佐々木は同じ会社の社員であるのに、2年ごとに車を買い替えるなど、中古のぽんこつに乗る自分との生活の差に驚いた。
佐々木になんで新車を買えるのか聞いてみると、
僕は「寝とってもお金が入ってくる」と衝撃の一言
佐々木にお願いをし、そのノウハウを教えてもらうことに。
そこで紹介をしてもらったのが、アオイ紡績の自動車用モップの縫製の仕事。
手に付けて車を洗う用のモップがブームで作れば売れるような状態だった。
ただし、一つ売っても入ってくるのは25円。
生活を楽にするためには、1000枚2000枚と作らないといけない。
しかし日中は仕事がある。
どうしようか考えた結果、作ってくれる縫子さんを探すことに。
岡パンの知多営業所で営業をし、人脈を作りながら、縫子してくれる人を探す。
お金に全く余裕はなかったが、縫子さん用のミシンも自分で購入。
一括購入する余裕はなく、ミシン屋さんと交渉し、月賦で何とか購入。
内職さんとミシンを一人ずつ、1台ずつ増やしていった。
月賦の支払いもあり、すぐには生活も楽にならなかったけど、
これを続ければいつか話儲かると信じ、それを続けた。
サラリーマンをしながら内職さんを回るのは本当にしんどく、
寝る時間がなかった、車で帰っているとき、寝てしまっていたり、気づいたら全然違う場所にいるなんてこともあった。
そんな生活をつづけながら、10年。
29歳のとき、当時の部長とトラブルになり、クビを言い渡された。
しかし、会長はこのときに「ありがとう」と思ったと語った。
岡パンの社長には雇ってもらった恩があり、自分から辞めるとは言えない。
これを逃したら一生やめられないと感じていた。
岡パンの社長は、部長にあげてやるからもう少し辛抱しろ。と言ってくれたらしいが、周りの意見、自分の思いもあり退社を決意。
お母さんが亡くなったことがきっかけで、
六供に住みはじめ、10坪の場所に工場を作った。
会社にするために、屋号を考える必要があった。
ここで生まれたのが現在の会社名である【タキコウ縫製】
実は佐々木の営業先であった、名古屋の瀧定、タキヒョーを参考にしたらしい。
42歳の時に、岡崎市小呂町に150坪の工場を紹介された。
10坪からしたら夢のまた夢。それでも一生懸命やればなんとかなると思い、購入を決意した。
むすこの滝川進も中町で工場を借りて、仕事を始めた。
この二つの工場の仕事を一緒にできるような場所を探し、2000年に現在の日名工場に拠点を移す。
「皆さんのおかげでここまでこれた。これからもよろしくお願いします。」
という最後の言葉がとても印象的でした。